2023年09月30日
【4巡目-76】 17番井戸寺から、徳島市内へ [2021年2月23日‐その5]
東海図版の四国遍路地図では、ここを渡って左方向に入りカクカクと曲がる道にピンクの点線がはいっている。今度は、ここを探索することにした。
今になって気が付いたが、天狗久会館の道にもピンクの点線が入っていた。ちょうど、地図の折り目になっている場所で、見落としていた。
行政シールも貼ってあり、そのまま一直線に進めば、徳島市内へと入って行くのだろうが、こちらは再び右折して国道へと戻った。
特に、古い街道を示すものは見当たらなかった。
一度歩いたことがあるはずなのだが、記憶はほとんど残っていなかった。
普段から便が緩いこともあり、困っていた所に、運よく公衆トイレがあって助かった。荷物が置きやすく一休みしやすいような、正方形の大きなベンチもあった。
タグ :歩き遍路
2023年09月26日
【4巡目-75】 17番井戸寺から、徳島市内へ [2021年2月23日‐その4]
お寺を出て、左方向に進む①の道がきっとメインルートなのだろう。
一巡目と三巡目は②のルート、二巡目は①のルートを歩いているので、今回は来た道を少し戻る、③のルートを進んでみることにした。
遍路と関係あるのか分からないが、石仏は発見出来た。
分岐がいくつかあるが、辛うじて遍路シールも残っており、順調に進み、国道192号線に至った。
新しいへんろ地図を見ると、国道を出た所で、チューオーというスーパーの裏側に赤い点線が追加されているのに気が付いた。
今回はこの道を歩いてみたいと思う。
両側に民家が並び、旧道の雰囲気がある。
「天狗久資料館」という、古い民家を使った、何かの資料館があった。
鮎喰川の袂まで来ると、祠や天狗久の碑なるものもあった。
2023年09月22日
【4巡目-74】 16番観音寺から、旧遍路道探索、17番井戸寺へ [2021年2月23日‐その3]
写真の場所も、遍路と関係する場所だろうか。舟形地蔵がたくさんある。
この辺りをウロウロしていた時に、期せずして、大阪のKさんに遭遇した。通常の遍路道沿いでは無い場所である。
この先にあるこども園の所を曲がれば(17)井戸寺に行ける、との事であった。
スマホの地図を見ながら歩いていたようだった。
通常の遍路道に合流し、立派な朱色の門構えの(17)井戸寺に到着した。
大阪のKさんは、無事に辿り着いていた。
Kさんとはこのお寺でお別れとなったが、今も元気に歩き遍路を続けているだろうか。
井戸寺と言えば、覗き込んで自分の姿が写れば無病息災、という、面影の井戸がある。(3)金泉寺にも同じような井戸があったか。
恐る恐る覗いてみると、今回もちゃんと姿が写っていた。
2023年09月18日
【4巡目-73】 16番観音寺から、鱗楼、旧遍路道探索へ [2021年2月23日‐その2]
再び、「鱗楼」の前を通り掛かる。横の小道を見ると、随分と奥行きのある建物であることが分かった。
一昔前は、宴会がよく行われるような、大きな料理旅館だったに違いない。現代では、その役割をホテルが取って代わってしまったのだろう。
同じ様な宿で思い浮かぶのが、北条にある「太田屋ビジネス旅館」かなあ。まだ他にもあったような気がする。
写真の大きな神社の前を通り掛かる。結構、印象に残る場所ではないだろうか。
東海図版の地図を片手に、それらしき道を探しながら小道をちょこちょこと曲がりながら進むと、古い遍路道である痕跡があちこちで見られた。
道端に、遍路石らしきものをいくつか発見した。
なかなか面白い。
2023年09月15日
【4巡目-72】 鱗楼、16番観音寺へ [2021年2月23日‐その1]
ご飯は、4杯分くらいを食べただろうか。
晩ご飯の時には、5杯くらいは平らげたから、相変わらずである。
昨夜は、午後9時半過ぎに就寝、今朝5時半過ぎまで寝ていた。
大阪のKさんは、夕方の徳島発の高速バスを予約してあるそうで、たっぷり余る時間は、サウナでゆっくり過ごす、との事だった。
自分も、行けるところまで歩いて、高速バスを乗り継いで帰宅予定である。
今日のメインイベントは、この道の痕跡でも見つけられたら、という所である。
まずは、午前7時を過ぎてから、「鱗楼」を出発。少し戻って、昨日寄れなかった(16)観音寺を参拝した。
商店や民家が並ぶ中にある、小ぢんまりとした境内のお寺である。
2023年09月12日
【4巡目-71】 鱗楼 [2021年2月22日‐その20]
本日の宿泊客は、大阪のKさんと二人だけである。
大変凝った料理が出てきた。
Kさんは予約が遅かったにも関わらず、食材の調達とかどうやって準備してくれているのだろうか、と感心してしまった。
Kさんと、会話をしながらの夕食となった。
血液の癌なんです、と話され、驚いてしまった。真性多血症という、血液の病気だそうだ。
自分自身も年齢的にそういった事態になることは十分にあり得ることなので、他人事では無い。
「鱗楼」と言う名称から、武骨なご主人が経営している姿を想像していたのだが、きめ細やかな感性の女性が仕切っている、という印象の宿だった。
鱗楼:一泊二食 7700円 〈206号室洗面あり 8畳〉
※洗濯機2台100円・乾燥機2台200円。自販機、外にあり。朝食は6時半から。
宿泊客:歩き遍路2名
2023年09月09日
【4巡目-70】 15番国分寺から、鱗楼へ [2021年2月22日‐その19]
広い道路を横断するが、今回もまだ全線開通していないと思われ、交通量は少なかった。2005年から状況は変わっていない。
(16)観音寺の前を通り掛かるが、午後5時を過ぎていたことから、参拝は明日にして、宿へ直行することにした。
程なくして、少し先にある本日の宿、「鱗楼」に到着した。
この日は、約25kmの距離に10時間半も費やしており、時速2.5kmにも届かなかった。
本日のコースタイム
もりあんloft6:51→7:45玉ヶ峠→9:25植村旅館→10:56広野→12:13建治寺12:51→14:38(13)大日寺15:26→15:59(14)常楽寺16:18→16:29(15)国分寺16:48→17:20鱗楼
歩行距離:24.6km
歩数 :44325歩
最高気温:20.2℃
最低気温: 6.8℃[徳島市]
2023年09月06日
【4巡目-69】 14番常楽寺、15番国分寺へ [2021年2月22日‐その18]
「まつり人のない 霊さまを おがんであげて 下さい」と書かれている。
字体も寂しそうで、悲しい気分を醸し出している。字は薄くなりつつあるが、何とか残っていた。
(14)常楽寺を出立する。
初めての歩き遍路である、大阪のKさんと歩いているので、参拝の作法について聞かれて答えていたのだが、伝わっただろうか。
我々以外は誰もおらず、貸切である。
Kさんは普通に参拝、自分はここでも、「今こそ四国遍路」でお勉強をする。
国分寺の中で唯一、戦国時代の兵火を逃れたのが「烏瑟沙摩明王堂」、との事である。確か、昔の納経所はここの横にあったはずである。
戦国時代から残っているとは、凄いものである。
せっかく二人で歩いているので、山門前でお互いに写真を撮り合いした。
今になって見返してみると、二月にも関わらず半袖だった。
2023年09月03日
【4巡目-68】 14番常楽寺へ [2021年2月22日‐その17]
2015年に泊まらせてもらった、「名西旅館花」の前を通る。親切なご主人は、お元気だろうか。
柚子の葉で作ったという、塗り薬を貰ったことをよく覚えている。
県道沿いの、本家になるのだろうか、「名西旅館」の方の看板には、「ヤメタヨ」と書かれていた。現在は花の方だけが営業しているのだろう。
ちなみに、2015年の写真を確認してみると、「本館は部屋広い」となっていた。
道筋はもう分かっているから修正して、大きな橋の袂まで戻った。
大日寺から30分ちょっとで、流線形の岩がボコボコの、(14)常楽寺に到着した。
「今こそ四国遍路」によると、イチイの大木の枝分かれしている部分に大師像が置かれているとの事。
「あららぎ大師」と呼ばれているそうで、確かにお大師さんがいらっしゃった。
2023年08月31日
【4巡目-67】 13番大日寺にて [2021年2月22日‐その16]
もう一人の歩きの方は、新型コロナの感染を気にして、部屋食にしてもらったそうである。
失礼ながら、何と我侭なお遍路さんがいるものだ、と思ってしまった。そんなに不安なら、ホテル泊まりでも良いと思うのだが。
結局、一人っきりのような食事となってしまい、寂しかったそうで、今声を掛けてもらって嬉しかった、と話していた。
一昨日は、広島のTさんとの楽しい夕食だったから、日によって、変わるものである。
自分が「鱗楼」に泊まることをお話しすると、宿のHPを確認し、連絡してみると、すでに午後3時を過ぎていたにも関わらず食事を提供してくれるとの事で、一緒な宿に泊まることになった。
同宿する歩き遍路さんと出会えて、こちらも嬉しかった。
ご一緒してよろしいですか、と言われ、同じ宿に泊まることに良いも何もないだろうと思っていたら、一緒に宿まで歩きましょう、という、お誘いの言葉だった。
あまり誘われたことがないので、ちょっと驚く。
2023年08月28日
【4巡目-66】 13番大日寺 [2021年2月22日‐その15]
「もりあんloft」を出たのが、午前7時前だったから、8時間近く掛かっている。
建治寺にも立ち寄っているが、距離は20km弱なので、時速2.5kmペースと、相変わらずののんびりさ、である。
大日寺の境内に入ると、歩き風の方が庇の下に座っていた。
自分の近くを歩いてるお遍路さんは、旅館吉野で一緒だった広島のTさんと、焼山寺への道で見掛けた野宿風の方の二人だけだろうなあ、と思っていたから、ちょっと驚く。
大阪から来られたKさんで、56才との事、自分より5才年上である。大阪からの移動は制限されていた時期だったのだが、そうなんですか、と知らなかったようだ。
話を聞いてみると、なかなか興味深かった。
何と、自分が泊まった翌日に、「旅館吉野」に宿泊したそうである。
という事は、今朝吉野さんを出て、(12)焼山寺に向かったが、道に迷ってしまい到着が遅れてしまった。たまたま焼山寺で出会った方に、お接待で(13)大日寺まで車で送ってもらった、との話しであった。
一日遅れで同じ宿に泊まった方と出会うとは、不思議な感覚である。
2023年08月25日
【4巡目-65】 おやすみなし亭、13番大日寺へ [2021年2月22日‐その14]
それが、随分と質素な感じになっており、失礼な言い方になってしまうが、みかんが数個置いてあるだけだった。
これまでお世話をしてくれていた方が、出来なくなってしまったのだろう、と想像する。
納札がいっぱい貼られていた遍路ノートもあって、書き込みもさせてもらったのだが。
何事も、何十年単位で継続していくことは難しいのだろうことを実感する。
この辺り、以前は食事する場所が見当たらなかったものだが、遍路道沿いにもコンビニが増えてきて、便利になったものである。
コンビニの横には梁田橋があるが、ここは潜水橋となっており、一度歩いてみたいと思っている。
植村旅館の方から歩いてきたら、広野集落の所で橋を渡らずにそのまま川の反対側を進んで、梁田橋を使うのもありである。
2023年08月22日
【4巡目-64】 13番大日寺へ [2021年2月22日‐その13]
杭に書かれた言葉は、「へんろとは 歩くこと也 感謝と行〇〇」だった。「行」の後の文字は消えてしまっていた。何だったのだろうか。
下界に到達、民家が見られるようになってきた。
へんろ地図では、建治寺から下りてきて、そのまま一直線に車道を下り遍路道に合流、ではなく、途中で右折することになっている。
短い距離だが、所々に石仏があった。今はただの田舎道のような感じだったが、歴史ある、古くからの道なのだろうか。
(13)大日寺への、通常の遍路道となっている県道に合流する。
ちょっと戻って、歩き遍路の休憩所としてお馴染みの、「おやすみなし亭」に寄らせてもらうことにした。
2023年08月19日
【4巡目-63】 建治寺、13番大日寺へ [2021年2月22日‐その12]
はっきりと覚えていないのだが、確か眼鏡のレンズを洗いたくて、恐る恐るちょっとだけ中に入って、小川の水ですすがせてもらったような気がする。
滝行と言えば、(61)香園寺の奥之院、白滝で行っているから一応経験済みではある。
建治の滝を過ぎてから、遍路石や石仏があるものの、荒れた歩きの道が続く。
数年後には消えてしまうのではないか、と心配である。
写真の鳥居のようなものは、木を乗せただけのようだが、人為的に造られたものだろうか。
建治の滝から15分程山道を下った所で、廃屋が見えてきた。下界に到達したようである。
レトロな看板であるが、建治寺まで、Aコース1700m(車道)Bコース1200m(歩道)と、まだ新しい案内が、左隅にあった。
2023年08月16日
【4巡目-62】 建治寺、13番大日寺へ [2021年2月22日‐その11]
「もりあんloft」で持たせてくれたお接待のおむすびを食べていた所、やはり親切なお寺さんで、コーヒーとお茶をお接待してくれた。
この日は天気も良く、気持ち良く過ごせた。
建治寺から(13)大日寺へは、初めて歩く道となる。
滝行場も通るようなのでどんな遍路道なのだろうか、楽しみである。
荒れた歩きの道を下って行く。四国八十八ヶ所の石仏が点在していた。写真に残っており偶々気付いたのだが、「七十番が山本寺」となっていた。本山寺の誤りだろう。
いつも通り、きつそうな方の鎖坂道を選択する。
鎖を使って下へ降りたのだが、ほとんど記憶が残っていないので、そんなに恐ろしい道では無かったのだろう。
鎖道を過ぎると、滝行をすると言う、建治の滝があった。
「建治寺」から15分程の距離があった。すぐ近くにあると思っていたから、通り過ぎてしまったのか、と諦めていた所だった。
2023年08月13日
【4巡目-61】 番外 建治寺 [2021年2月22日‐その10]
へんろ道保存協力会の立杭も辛うじて残っていた。
杭の横には、「南無大師遍照金剛 唱え歩めば涙流るゝ」であった。
お寺まであと一息である。
先程まで、あれだけしていたくしゃみが出なくなった。もしかして不思議体験か、と期待したのだが、お寺に着くと、また出だしたから違ったようである、残念。
麓の遍路道沿いの鮎喰川が、谷間から平野部に出る様子がよく分かる。
望遠にして撮ってみると、吉野川まできれいに見えていた。
辰濃和男さんの著書「四国遍路」に書かれていたお寺である。
前回訪れた時には、住職さんが、山奥に何ヶ月か籠って修行している、など色々な話を聞かせてくれた。
今回もお会い出来るかなあ、と思っていたが姿は見られず、奥さんらしき方が納経所にいらっしゃった。
2023年08月10日
【4巡目-60】 番外建治寺へ② [2021年2月22日‐その9]
そのまま進めば(13)大日寺、右が建治寺、との事である。
大日寺に向かえるなら、この道を通るのも、少し勾配はあるが楽しそうである。
この辺り、開けており眺めが良い。ちょっと一休みしていくことにした。
それにしても、花粉症によるくしゃみが出まくっている。下界にくしゃみが響き渡っていたことだろう。ポツポツある民家の住人にも聞こえていたに違いない。
民家のある舗装路になったり、荒れ気味の土道になったり変化に富んでいる。遍路札も何とか残っており、迷う事はなかった。
平成遍路石がある、見覚えのある車道に出て来た。神山森林公園からの道である。
前回は、建治寺からこの場所に出て、車道を下って、[2]童学寺へと向かっている。今回は、反対方向から上がることになる。
土道を上がると、脇から生えているごつい草を刈ってくれた形跡があった。
2023年08月07日
【4巡目-59】 番外建治寺へ① [2021年2月22日‐その8]
看板もあって、分かりやすい。
ここから右側への道に入る。
人の気配がしない、薄暗い車道を黙々と上って行く。十数分経った頃、周囲が開けて、民家があった。
桃源郷のようなと言おうか、時代劇にも出てきそうな昔の雰囲気だった。
こんな場所に家が、と思っていたら、次第にポツポツと数が増えてきた。
調べてみると、これは照蓮の標石と言うらしい。
昔の(13)大日寺への遍路道は、現在の川沿いの道ではなく、この辺りを通っていたようで、その標石、という事である。
それにしても、くしゃみをしまくり、鼻水も出まくりである。
どうやら、花粉症の症状が出ているようである。春先になると、ちょっとくしゃみが出る程度だったのが、年々ひどくなっているような気がする。
花粉症に罹っているのを認めないといけないのだろうか。
2023年08月04日
【4巡目-58】 広野、番外建治寺へ [2021年2月22日‐その7]
個人商店が並び、一昔前はちょっとした商店街だったのだろう、懐かしさを感じる雰囲気だった。
結構大きな集落と思われ、さすが中学校が残っている町だなあ、と思ったが、調べてみると近年になって休校になり、広野小学校がここに移ったようである。
ここの学校のグラウンドの一角の遍路道沿いには、自由に使える綺麗なトイレがあったのだが、今も利用出来るのだろうか。
広野を過ぎてから、三巡目に続き、番外の建治寺を目指すことにしている。
前回は、神山森林公園側から入り、別格の童学寺へと抜けているが、今回は広野側から入り、(13)大日寺方面へと進むから、一般的なルートという事になるのだろうか。
初めて歩く道となるから、楽しみである。
2023年08月01日
【4巡目-57】 旧遍路道探索(赤松峠) [2021年2月22日‐その6]
この先、再び今日のメインイベントの一つがある。
東海図版の四国遍路地図によると、神山温泉方面からの道と合流する、広野集落の手前にある秋葉神社を囲むようにして赤い点線の遍路道がある。
ほんの短い距離なのだが、ここを探検することである。
それらしき分岐はすぐに見つかり、坂を上る。
ただこちらは、その先に土道が見えている。
「赤松峠」の看板があり、日当たりの良い丘のような感じで、百五十四丁の丁石やたくさんの石碑、昔の墓らしきものなどもある、由緒あり気な場所であった。
またも、新たな遍路道発見である。
遍路札やシールが無いのは、民家を抜けるからだろうか。