2014年11月02日
【430】歩き遍路47日目〈その2〉[2012年6月28日]
少し行き過ぎたと思われる場所に、四国の道の道しるべがあり、右の方のダート道に入っていった。この道でいいのかな、と思いつつ進んでいく。
どうやらこの道は、大内ダムのダム湖を、へんろ地図の赤い線の対岸を進んでいく道のようである。この道を進んでも與田寺へは行けそうである。
来た道を戻るのはつらいのだが、初めての道なのでやはり、へんろ地図の赤い線に沿って歩きたいので引き返すことにした。
星越峠辺りは道路の拡幅工事が進んでいたので、遍路道の入口が分からなくなってしまったのかも知れない。
大内ダムまで来ると、またも道に少々迷ってしまった。へんろ地図ではダムの堤を渡る感じとなっているが、渡らずに下へ降りていくのが合っているのでは、と写真の草の生えたコンクリート道を降りていく。
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Posted by こいったん at 10:58│Comments(2)
│お遍路 第二拝(香川)
この記事へのコメント
おはようございます
「百人の遍路があれば、百の遍路道がある」、深田久弥の日本百名山賛歌をもじったようなこの言葉、遍路の真髄を言い当てているような気がします。
各々の思いを胸に人々は四国の地を訪れ、その凡百の思いが遍路の足跡となって残っていく。四国を廻り終えても(一応、結願と呼びましょうか)その思い(自己修練)は成就されることなく、四国を離れ世俗に帰っていく。(歩くことだけを目的に四国を訪れる人は例外ですが)
私は、四国を離れてからが本当の「遍路道」の始まりだと思います。「人生即ち遍路」「遍路即ち人生」とか詠われる所以が実感されてきます。
「満願」とはその思いが現実に成就されたと感じた時、そう呼んでみたいと思ってます。それがどこの地であろうと。
「百人の遍路があれば、百の遍路道がある」、深田久弥の日本百名山賛歌をもじったようなこの言葉、遍路の真髄を言い当てているような気がします。
各々の思いを胸に人々は四国の地を訪れ、その凡百の思いが遍路の足跡となって残っていく。四国を廻り終えても(一応、結願と呼びましょうか)その思い(自己修練)は成就されることなく、四国を離れ世俗に帰っていく。(歩くことだけを目的に四国を訪れる人は例外ですが)
私は、四国を離れてからが本当の「遍路道」の始まりだと思います。「人生即ち遍路」「遍路即ち人生」とか詠われる所以が実感されてきます。
「満願」とはその思いが現実に成就されたと感じた時、そう呼んでみたいと思ってます。それがどこの地であろうと。
Posted by 越前おろしそば at 2014年11月03日 09:34
こんばんは。
人生そのものが遍路なのですね。結願して気持ちの整理が出来た、という話もありますが、特別心に響くものは無く、心願成就もままならないので、人生という遍路(修行)は続いているのでしょうか。
歩き遍路に挑戦して結願していますので、何か即効性のあるご利益がちょっとでもないかなーと不謹慎にも考えてしまいます。
人生そのものが遍路なのですね。結願して気持ちの整理が出来た、という話もありますが、特別心に響くものは無く、心願成就もままならないので、人生という遍路(修行)は続いているのでしょうか。
歩き遍路に挑戦して結願していますので、何か即効性のあるご利益がちょっとでもないかなーと不謹慎にも考えてしまいます。
Posted by こいったん
at 2014年11月03日 18:02
